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昭和43年3月31日、東京都大田区大森に生まれました。誕生と同時に「天上天下唯我独尊」と言ったとか、「コブラが布団の中にいたのに噛まれなかった」などという逸話はありませんが、前の晩まで降り続いていた大雨が僕が生まれたのにあわせてあがったとかあがらないとか。

名前は「のりやす」。

縁戚の高名な占い師の方がいくつかの候補をあげてくれて、その中から父が選んだらしい。ちなみに「破竹の勢いで成功を収める」予定らしいが、今のところその兆候は皆無。

写真は多分1歳ちょっとの時。きかなそうな顔してますね。


これは何歳のときだろう。けっこうおちゃらけています。小さい頃はあまりの可愛さによく女の子に間違えられたとか。

今思えば、両親は決して裕福ではなく、むしろ貧乏だったと思うけど、僕にはいつも可愛い格好をさせてくれていました。

少し歩いたところに「池上本門寺」という日蓮宗の総本山があって、よく遊びに行きました。

写真は当時住んでいたアパートの階段で。


幼稚園入園の日。

すっかりテンションが上がっちゃって壊れている。この頃は東京の大田区なんてところにもまだ畑があったんですね。ドブもあるし。

ところで、この幼稚園。入園するのに簡単なテスト(といってもみんなでお遊び)があったのですが、僕が一番遅くて母をハラハラさせたらしい。なにが遅かったかと言うと、好きな折り紙を選ぶのに最後まで迷っていたのだとか。そう言えば、決断力に欠ける性格は大人になるまで続いていました。


元祖コスプレ。
お稚児さんの行列の写真です。

本人、何をさせられているのか全くわからず。


小学校は大田区立の小学校へ入学。この学校、当時としてはとても人数が少ない学校で、一クラス30人で3クラスしかありませんでした。

幼稚園から小2まで「ヤマハ音楽教室」へ通い、小3からエレクトーンを習い始めます。写真は発表会の光景。

エレクトーンはその後大学を卒業するまで断続的に続けることに。


いきなり中学時代の写真。修学旅行先の京都にて。
いままでの天使のような可愛さは何処へやら。

中学は中野区の学校へ入学。区が違うって?そう、小学校6年生の夏休みに大田区から中野区へ引越したのでした。

父は八百屋の三男。それまでは叔父の店で働いていたのですがこの時に独立、自分の店を構えたのです。おかげでこの頃から僕も時間があれば店を手伝うという生活に。オバサマ達と話をあわせるのが上手いという特技はこうして養われていきました。



中学卒業後は都内の私立高校(男子校)へ進学。本当は都立を受験する予定が3年生の2学期に成績が下がり、志望校を受けられなくなったのでした。

高校時代はラグビー部に所属。ポジションは右ウィング。逃げ足の速さを活かしチームのトライゲッターとして活躍。といっても弱小チームでしたが。

弱くても練習はきつかった。何しろ正月以外は休みなし。そう思うと仕事ってラクチン。


ラグビーを3年生の秋まで続けつつもきちんと卒業。マークシートの読み込みミス(?)で志望した都内の私立大学にも現役合格。将来、経営コンサルタントになりたいという夢を抱きつつ経営学科へ進む。入学式の日に高校の先輩に拉致されラグビー部に入部させられるも3ヶ月で退部。その後は真面目に勉強に取り組む学生生活を送る。(ウソ)

この頃、最初の海外旅行としてヨーロッパへ行きました。


これはちょっと自慢。

ゼミ(マーケティング)の課題で応募した電通の学生広告論文のグーループ部門で佳作入賞。贈賞式に一緒に書いた親友と二人で出席。大学時代の一番の思い出です。


そして無事4年間で大学卒業。当然、実家を継ぐなどということはチョイスには無く、就職。時はバブル経済期。大企業から「弊社の就職試験を受けていただけませんか」という電話がかかってきた時代。それでも就職活動をしていてバブルに浮かれる企業の雰囲気に疑問を感じ、民間会社へは就職せずに母校に裏方として就職。現在は新しい校舎の建築計画を立てる仕事をしています。

写真は1999年に参加したいわゆる業界団体の研修会でレポートを発表しているところ。高校生の頃とほとんど変わっていないですね。(汗)


さて、こうして真面目に(?)仕事をする一方で、休暇の度に海外旅行へでかけるという習慣が定着していきました。


そして、2001年8月16日、らくだの旅行オープン。



こんな僕が創っている「らくだの旅行」ですが、どうぞ末永くよろしくお願いします。


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